20171031-1106
立教大学演劇研究会
一度だから取りこぼしたところの方がきっと多いくらいだけど、覚えているかぎり少しずつ書きます。一度しか見られなかった。あのエネルギーの圧を消化しきれないまま、もう一度見る覚悟のつかないまま公演は終わってしまった。
前情報からぼんやりと想像していた内容とは真逆と思えるくらいの熱さというか圧力を感じた。区切られた独白と、地続きと言えるくらいの舞台の距離の近さ。物語の中で断片的にいくつも噴出する一人ひとりの感情。
特に序盤から真ん中にかけてはひたすら緊張して見ていました、表情を見ていられなくなって顔を伏せたシーンもあったくらいに。
風船。
あの下でお前みたいな子が泣いてる。
もう泣かないよ。
動的な感情の吐露の連続からふいに静かになったところ。
何年経っても何ににもなれない焦りを見透かしていない、いつまでも幼いままの息子を重ねて年を取った母親のまっすぐさに打たれた。パンフレットに落ちた涙をこすっていたら音楽がかかってダンスが始まってあっけに取られて見つめてしまったけど。
改めて台詞を書くと、きちんと覚えていないのが悔しい。
この青い風船の写真が一番私のイメージに近かったから使いました。でもあの場面で二人と同じ方向を見て、風船は赤だったと勝手に信じてます。小さい頃赤い風船を飛ばしちゃったことがあるからかな。泣いてはない。
それと誕生日。人と時間を変えて繰り返されたモチーフ。年を取るのが嬉しくない、と同じくらいには陳腐なきっかけで誕生日があまり良いものには思えなくなったので、去年と今年は平日と同じように過ごしていたから、おめでとう、と口にされる場面でなんだか少し苦しくなった。
でも今年だってちゃんとおめでとうを言ってくれた人はいたんだ、と思い出して、人や自分の誕生日をフラットに受け止められるようになったかもしれない。
前進のように見えて、こういうふうに何かを悲しく思っていたことをゆるやかに忘れていくとしても。
猫を探すところ以降の終盤は冗長というかやや説明的にも感じたけど、ラストシーンに繋げる為にも必要だったんだと思う。
というか、やっぱり真面目に打ってて落ち着かないので、どうしても疑問に思ってたこと書きます。体操服って普通一枚じゃない?ずっと気になって落ち着かなかった。私は小中高と当時のクラスメイト含めて体操服一着が基本だったはず。長袖のジャージ含めるなら別だけど…。
ただ誘ってくれた友人に聞いてみたら一枚じゃなかったよ、と言われたので私の育ちがあまり良くないだけって可能性もあります。
*1:出典元:フリー写真素材 フォトック